ポップアートの出発点は、実はアメリカではなく1950年代のイギリスでした。
リチャード・ハミルトンやエドゥアルド・パオロッツィらが、広告、雑誌、映画、テレビ、自動車、家電製品など、大量消費社会が生み出したイメージを芸術に取り込み始めたのが最初です。
特にリチャード・ハミルトンの作品は、初期のポップアートを象徴する作品として知られています。
ところが、イギリスの芸術家たちが題材にした大量消費社会の「本場」は、実際にはアメリカでした。
コカ・コーラやハリウッド映画、コミック、テレビ、スーパーマーケット、広告、スターなどなど。
そして1960年代に入ると、そのアメリカ社会の真ん中からアンディ・ウォーホルが登場します。
1928年 貧しい移民の家庭に生まれる
アンディ・ウォーホルは、1928年にアメリカのペンシルベニア州のピッツバーグに生まれました。
両親は現在のスロバキア地域から移住してきた労働者階級の移民でした。
父親は炭鉱などで働き、決して裕福な家庭ではありませんでした。
幼少期の彼は、体が弱く家で過ごすことが多い少年でした。
家で過ごしている間は、映画スターの写真を集めたり、絵を描いたり、ラジオを聴いたりして過ごしていました。
後に彼が繰り返し描くことになる有名人やスター、写真、大衆文化への関心は、すでに少年時代から始まっていました。
1949年 ニューヨークへ
大学で商業美術を学んだアンディ・ウォーホルは、1949年ごろニューヨークへ出ます。
しかし、最初から画家として成功したわけではありませんでした。
彼が成功したのは、まずはイラストレーターとしてでした。
ヴォーグやハーパーズバザーなどの雑誌や広告の仕事をし、特に靴のイラストで高い評価を得ます。
彼は、純粋な芸術だけを学んできた画家ではありません。
最初は広告の世界からデザインの世界へ入り、そしてマスメディアを経て美術の世界へ入ってきた人なのです。

1961年~1962年 商品をそのまま絵にしてしまう
1960年代の初頭に、アンディ・ウォーホルは重大な転換をします。
広告の仕事ではなく、本格的にアートの世界へ飛び込んだのです。
そして1962年、彼を一躍有名にする作品が登場します。
それがあの「キャンベル・スープ缶」です。
それまでの芸術では、美しい風景や人物、抽象的な表現などが「美術作品」になるのが普通でした。
ところがアンディ・ウォーホルは
「スーパーに並んでいるスープ缶だって、現代のアメリカを象徴するものではないか」
という発想をアートの世界へ持ち込みます。
ここからポップアートの歴史が大きく動き始めます。
1962年 シルクスクリーンとの出会い
そして、アンディ・ウォーホルは写真製版によるシルクスクリーンの技法を本格的に使い始めます。
これは彼にとって非常に重要な事でした。
なぜなら、筆で一枚ずつ描くのではなく、同じ画像を何度でも複製できるからです。
彼は、このシルクスクリーンの技法を自分の芸術の中心に据えました。
1962年 マリリン・モンローの死
1962年8月、マリリン・モンローが突然亡くなります。
アンディ・ウォーホルはマリリン・モンローの宣伝写真をもとに、シルクスクリーンの技法によって同じ顔を何度も繰り返す作品を制作しました。
有名なポップアートの絵画「マリリン・ディプティック」です。
この時点で彼のポップアートのスタイルがほぼ完成します。
しかし単にマリリン・モンローをきれいに描いた絵ではありません。
同じマリリン・モンローの顔が何十回も並ぶことで、映画スターの顔さえも、スープ缶やコカ・コーラのように大量に消費されるイメージに見えてきます。

1963年~1968年 ファクトリーの時代へ
アンディ・ウォーホルは、ニューヨークにスタジオを構えます。
有名なファクトリーという名のアトリエです。
普通の画家ならば「アトリエ」と呼ぶところを、彼は「ファクトリー」つまり工場と呼びました。
ここに彼の思想がよく表れています。
芸術家が一人でキャンバスに向かって魂を込めて一点物の絵画を描くのではなく、助手たちと一緒にシルクスクリーンの技法を使って作品を次々と大量に制作する。
つまり、
「芸術作品も工場と同じように大量に生産できるのではないか?」
という、彼独自の挑発的な考えです。
1968年 銃撃事件
1968年、アンディ・ウォーホルは作家ヴァレリー・ソラナスに銃撃されます。
一時は生命が危ぶまれるほどの重傷でした。
彼は一命を取り留めますが、この事件を境に彼とファクトリーの雰囲気は大きく変わっていきます。
1970年代 世界の有名人を描く
1970年代になると、アンディ・ウォーホルは世界的な有名人の肖像画を数多く制作するようになります。
政治家、王族、俳優、歌手、実業家、富豪などなど・・・
彼に肖像画を描いてもらうこと自体が、一種のステータスになっていきました。
つまり、
スターを描いていたウォーホル自身が、スターになってしまったのです。
1969年には雑誌「Interview」を創刊し、芸術家という枠をさらに越えていきます。
1980年代 「芸術」と「ビジネス」を融合させる
アンディ・ウォーホルは、芸術とお金を対立するものだとは考えていませんでした。
むしろビジネスそのものを芸術作品だとして考えました。
彼の有名な言葉に、
「良いビジネスは最高の芸術作品だ」
という趣旨の言葉があります。
これは芸術作品を考えるうえで非常に重要です。
作品を作る。
有名になる。
メディアに登場する。
自分のブランドを作る。
作品の価格が上がる。
彼は、このすべてを一つの芸術活動として考えていたのです。

1987年 58歳で死去
1987年2月22日、アンディ・ウォーホルはニューヨークで亡くなります。
58歳でした。
胆嚢の手術を受けた後、術後の合併症によって突然亡くなったのです。
その死は世界の美術界に大きな衝撃を与えました。
アンディ・ウォーホルは何を変えたのか
アンディ・ウォーホル以前、多くの人にとって芸術とは、
「画家が自分の手で描く特別なもの」
でした。
しかし彼は、商品でもいい。
広告でもいい。
写真でもいい。
有名人の顔でもいい。
同じ作品を何枚作ってもいいと考えました。
つまりアンディ・ウォーホルは、単にポップアートの絵画を描いた人ではありません。
「何を芸術と呼ぶのか」というルールそのものを変えてしまった人物なのです。